「安全」と「安心」は異なる

「大丈夫です、安全ですから」
この言葉、東日本大震災があってから何回きいたことでしょうか。この言葉を聞く度、わかっていないなと痛感せざるを得ません。
安全であるから安心してください、安全だから安心だ、という命題はは全くの偽です。なぜならば、次元が異なる内容を1つにまとめた話しているからです。「安全」は科学的な論理体系に基づいた、比較的高確率で安全性が示されている状態の事で、ある種これは1つの「事実」です。しかし、「安心」というのは心情的なもので、決して論理や科学で説明できないものです。
例えば、あなたの家の地下に戦争時代の名残で、不発弾がうまっていたとしましょう。しかし、もはや長い年月を経ているため、科学的に爆発する可能性は限りなく0に近く、「安全」であるという事が科学的エビデンスに基づいて証明されました。果たしてこれは「安心」でしょうか。
私なら「いつ爆発するかわからないから不安」になります。科学的に爆発する確率が0に近くても、不安になります。むしろ、最悪の事態を想定すればするほど、なんだか実際に起こりうる事のような気がしてしまうのです。この心情的な不合理を、行動心理学では確率の過重関数による不合理性と言います。こういった不合理な心情の変化は、人間にはつきもので防ぎようが有りません。ですからいくら事実として「安全」を突きつけられても、必ずしも「安心」するわけではないのです。
また、感の良い方は気づいているかもしれませんが、いくら「安全」と言われても「安全」であるのは今であって、将来ではないですから、なんとなく将来が「安心」である感じがしないのです。もし「将来も安全」と言われても、そんな気がしない。これを行動心理学で時間的不合理性と呼びます。人間は、未知数な物に時間軸が加わると、一気に不安になるのです。
この時間的不合理性が「安心」を妨害している可能性が非常に高いのが今回の例です。「いつ爆発するかわからない」という、根拠の無い不安が押し寄せてくるんですね。これは人間であれば程度の差こそあれ、必ず存在します。ですから払拭するのは不可能に近いのです。

そこで必要なのはリスクとリターンの話です。「不安」というリスクを背負っても、十分トータルで+になるような「リターン」が望める場合、そこに人間の行動は存在するべきだと思っています。
安易に原発推進、脱原発の話はしませんが、(詳細は過去記事「反原発の不都合な真実」へ)少なくとも僕はこのメソッドに沿う事で社会全体の利益を生み出す事が可能だと思います。「原発がいつ事故を起こすかわからないリスク」と「安価で大量な電気供給によるリターン」、どちらが大きいのか正確に判定し、前者が大きければ原発は使わない、後者が大きければ原発を使う、そういう冷静な判断が全体の利益を生み出すのではないか、そういう素質こそリーダーに必要なのではないか、そう考えています。
人間の不合理性に論理と理性で抗ってこそ、社会全体で利益を生み出す事ができる、そんな話でした。
- 関連記事
スポンサーサイト
この記事へのコメント: